ちくま会 リレーエッセー
関東コラムでは、関東同窓会の会員、役員、各部会長による「リレーエッセー」を、
新規の企画として実施することにいたしました。以下の方に寄稿して頂きました。
(以下の題名をクリックすると、各々のリレーエッセーにリンクします)
第十一弾 「一冊の本と私」 会員 依田幹雄(昭39機)
第十弾 「参拾に壱字加うは」 会員 井出和輝(昭39機)
第九弾 「よそうね いそぐこと」 理事 一之瀬和夫(昭39機)
第八弾 「卒業から50年が過ぎて」 理事 馬場昌信(昭46電)
第七弾 「温故創新―私たちの未来」 理事 坂口光治(昭41電)
第六弾 「あなたは虹」楽曲作成 HP運営委員 S.Motegi(昭39機)
第五弾 「同期会・同窓会はいいもんだ」 機械科部会事務局長 栁澤今朝雄(昭39機)氏
第四弾 「この混乱はコロナのせいか? 人は?」 事務局長 中村享二(昭44機)氏
第三弾 「高校時代の思い出」 電気科部会長 坂田和夫(昭47電)氏
第二弾 「裂地(きれじ)」 建築科部会長 荒木重俊(昭33建)氏
第一弾 「一日一生」 機械科部会長 髙橋忠正(昭39機)氏
ちくま会 リレーエッセー No.11
「一冊の本と私」 2021年 10月 19日
関東同窓会 会員 依田 幹雄
昭和39年機械科卒
時は17年前に遡る。オーム社から雑誌「新電気」2004年1月号(H16)掲載のリレーエッセイ「1冊の本と私」の原稿執筆を頼まれた。誰かが私を推薦したようだ。全国版の雑誌なので気を使いながら,「生きていくための実学とは」と題して,「自分の顔,相手の顔」(曽野綾子著)について書いた。ちなみに,次のリレー候補として,上田市の女性ピアニストNさんを推薦。Nさんは「葉隠からパワーをもらう」と題して「葉隠」(山本常朝著)について書かれ4月号に掲載された。ロシアへ留学するときも葉隠を持って行き事あるごとに読んでいた,武士道をピアノ道と置き換えて葉隠を人として音楽家として生きる支えにしている,と書かれていた。「恩を受け候人には一生の内疎遠にあるまじき」の一文が好きだとも。
これを機に,「私」と「感銘を受けた一冊」を紐付けて,忘備録を兼ねた「一冊の本と私シリーズ」を書こうと思い立ち,以後8年で36編ほど書いた。ここで紹介するのはその中の一つである。
詳細は、添付依田リレーエッセー2110を参照願います。
ちくま会 リレーエッセー No.10
「参拾に壱字加うは正なれども弐字加うは字あまりなりし」 2021年 10月 3日
関東同窓会 会員 井出 和輝
昭和39年機械科卒
『夜学ぶ生徒らはみな土のにおい汗のにおいをもちて集い来』
今から五、六拾年前の歌会始の一般の部の入選作である。私は一度見て頭に入り、今日まで忘れないでいる。
米櫃が空の時もある母子家庭で、奨学金を受けているのに勉強する気はなく、ただ学校に顔を見せていた生徒であったから、夜学ぶ生徒らは凄いと思ったのかも知れない。今この一首を読んでみると読み手をなる程と思わせるところ、まるで詐欺師である。
生徒らをみなとあり汗のにおいを皆持ちてくるわけだが学ぶ生徒の実態は各種各様であり皆であるわけではないのだが、本統のような気にさせてしまう。汗は夏の前後だろうが一年中汗のにおいをさせて通学してくるようにも思えてくる。私は夜学の生徒の作と思っていたが、客観的な読み方なので先生であるかも知れないと今は思う。選者をもうならせてコロリと騙してしまったようだ。
『草むしりわずかばかりの土おこし小さな虫が飛び出しにけり』
土がお題なので当方も一首ししたためたが、ありふれていて詐欺師にもなれない。
『かめの水澄んできれいでよくうつる うつせばおかし私の顔』
お袋がよく口にしていたので自然に頭に入っている。小学校から中学校の頃だと思う。うつせばおかしのところが好い。作者は長野県の女流歌人清水澄子の作とお袋は言っていた。作者の顔立ちは美人ではあるまいが、際立った醜女では無しに多少目尻が下がっているか、鼻のてっぺんの面積が広いぐらいと私は想像している。かめに映った自分の顔をゲラゲラ笑ってい光景が浮かび上がる。お袋の顔は、おかめひよっとこの類で少女時代も同じ顔つきであったろう。
昔農家には大きなかめのひとつぐらいあったろうから、映しては自分の顔を笑ったかも知れない。それでこの一首に共感を得たかもしれない。お袋を追想追悼する気はないがこんな一首はどうだろう
『かめの水ゆれてゆがみし我が顔は整えられし美しくみゆ』あるいは単純に、
『炎天下かめの水汲みまき散らす湯気が流れてくるような』
『年々に我悲しみは深くしていよよ華やぐ生命なりけり』
華やぐ命が際立っているが華やぐ命とはどんな命かとなるとまとまらない。人に負けないとか、ファッションショーのモデルとしてスポットライトを浴びるとか、女主人公の役をいくつも得て蝶が舞うようにこなしてしまうとか、或いは燃える闘魂とかやったるでとか、ふざけるなこの野郎とかの生命力とは明らかに異なるものだ。
悲しみが深まれば深まるほど何しろ華やいでくるのだから。この一首は小説の最後に一行老妓に言わしめた。小説をよく丁寧に読み熟せば解りそうだが上手くいかない。女性は、年ゆけば悲しみを深くしていくが、男性はむしろ年老いて感じるのは不安の方に違いない。そんな気持ちを一首としてみた。
『年経るに不安増します雪だるま生命熱せし融かしゆくかな』
生命熱しとしてみたがやはり華やぐ生命がよしか。
塩原から鬼怒川温泉に抜ける高原で素晴らしき御足のご婦人を観ることができた。
『高原に大根買うの婦人みゆ二本は足にくくりつけしかな』若しくは、
『ご婦人の足を売場に並びける筋よきものと値が張るような』
婦人が包丁をあげて追いかけてきそうだ。そんな時は、車を走らせて早くその場を立ち去ろう。
『包丁を持ちて婦人は追いかけし孫子兵法逃げるにしかず』
了
ちくま会 リレーエッセー No.9
「まえよのはんせいから・・よそうねいそぐこと」 2021年 9月 24日
関東同窓会 理事 一之瀬和夫
昭和39年機械科卒
陣馬山
その一週間ぐらい前から天候や空もようも気になる。こんなのは悠長なほうで、ひどいのは《ゆうビール》を“クックーッ”とやりかけて「そうだ、あしたはいい」と予報をのぞいて準備にとっかかる。いつもこんな調子。そんなとき、仕事の成りゆきは視るが暮し遊ぶ四人孫とのことなど差しおき夕ご飯もそのまま、詰めものリストを手にしてことにかかる。
だいたい始まりはいつも突然のこと、 これが何ともいえない期待感で、寝すごさないかな雨ないだろうなの気分なのである。
―話しは移るが、小中学のころがいちばん中味が詰まっていたように思われる。それも遠足や旅の準備にかまけていたときだ。小学の頃にあった遠足は、低学年に嬬恋の田代湖や菅平の根子岳四阿山へ、また高学年では須川湖へ行った。これらの遠出は夏やすみに入ってすぐにあった。その日の朝暗いうちに体育の先生は火の見やぐらにのぼって雲行きを観察、出発直前も引率の先生方に報告していた。
大日向分校を出発し県境の鳥居峠(7km)をすぎて田代湖(人造湖)まで片道18kmほどを往くものであった。そのころ、上田-草津の定期バスはあったが本数は少なく、野菜トラックがごくたま~に過ぎていたぐらい。すり減ったズック靴を砂利でさらわれホコリを吸い、歌うたいながら道ばたをたたきながら行ったものだ。ー
さて、準備にかまける話にもどる。先ほどの話しは標高3千m級の槍へでかけるとかのようなものではなく、1千mに満たない丘へ散歩にでかけるだけのことである。
つい七年ほど前(2014年)に始めたころは神奈川県の丹沢山系西端にある大山とその周辺がおもなところであった。ふもとのケーブルカー発着駅より徒歩で下社まで登り大山(標高1250m)の奥社までたどるのだが、出発地点までもどる往復は10時間ほどの道のりである。まあ、編み目のようにめぐらされている山道をつないで、できるだけ初めての景色になるようにするのも期待感のうち、その道すじを紙面へ描くことも記憶の訓練になる。
春先、うすいみどりの山はだに薄桃に映えるミツバツツジつつじもよかった。8月、汗だくになりながら手拭をしぼり頂まで一滴も補給せず、秋には急傾斜の岩棚に根を張り深紅の果実を載せたマムシ草にしばし気をとられて、オットットアブナイアブナイ。毒気がありそうなその色合いは鳥獣に嫌われているようで、その群生数もみごとなもの。住み家から大山の麓にある登り口まで鉄道とバスを乗り継いで2時間ほどかかる出費なので、いつのまにか近場の陣馬山(標高855m)行きにかわってきた。
2016年頃から、この陣馬山から高尾山までの尾根を徘徊することが体力づくりになっている。
土日曜の朝に3時起き、1時間かけて昼ご飯の準備をして5時半に出立する。JR高尾駅では6:55発の陣馬山下行バスに乗り、八王子市恩方村(中村雨紅の夕焼小焼の里)を経て、陣馬山下まで40分の行程である。
陣馬山下バス停を7時半ごろに出発する頭隊は小さな水桶を背にした身軽な小集団である。まあ、しんがりでゆっくりと歩むことにしている(7:40発)。ここから山頂までのコースタイムは1.5時間で、道中に数名を抜くこともある。
コースタイム~+5分ぐらいで山頂へ達するので、まあ体力は維持されているかなあ~、と少々の自信はある。このごろはくやしいけど姐御たちに越されることもある(頂上9:05)。5、6月には山頂に近いわき道でいちご摘み(黄色のモミジイチゴ)、10月はステッキにつけた返し矢で薮中にあるいが栗刺しもできる。
さて、陣馬山頂に水洗トイレができたのは2020年のこと、ここで20分ほどひと息つく。この辺りまで来ると後へは引けず惰性で進むしかない・・、やれやれ。このコースは初級で、高尾山までの縦走路16kmを6hほど、べつに休憩1.5hほどかける。このまま水なしでお昼ご飯の城山へ、そのあと高尾山頂までつづくが標高差100mほどのものが2カ所にある。
最後にあるキツイものは高尾山頂の裏にある208ばかりの石段である。立ち止まりなしで3分以内にのぼりきるのを目標にしていた。1年ほど前までは-5秒ほどで達成していたのにね、このごろは+5秒にまで延びてきたので、日ごろの訓練にはげむのである(山頂着15:00)。だいぶ前から(2012年)高尾山頂に水洗トイレができて、男性用だけでも8扉ほどあって小児の着せ替えなどもできる。登山者から入山料をもらう案が出ているもののなかなか進展しない。このようなものは徴収でなく健康に感謝する奉納とし、頂上に管理所をおいたらいいではないか。
参道をくだって蛇滝コースへ入り小仏川までを下がるが、これまた人通りは少なくうら怪道のよう。これをひっそりとぬけて中央高速道の直下に出る。川沿いに高尾梅郷(4、5月にうめまつり)があり、ここから駒木野院長が提供された駒木野遊歩道が1.5kmほど甲州街道まで続いている。やれやれと、草臥れてようやく伏せりたいが・・、ヒマはなく(16:50)、道脇に立寄って《ゆうビール》を “クックーッ”と入れて一息の反応を確かめるのである。いつものように、これが今日の帳になる。季節によっては夕ぐれが早く足元を薄くするので・・アブナイ々・・、などとボヤキながら朝に出発した高尾駅までをふみしめ歩むこと20分。
5,6月にはこの川沿いで梅とりができるので、背袋のほかに成果5kgほどを手提げにして家へたどり着く。「ただいま」のときは19時半になっていて、5時半に出立してからおよそ14時間の歩きもこれにて了です。この1日に歩いた距離はおよそ22kmであった。
―わが家8人のひとときー
ある日の夕ご飯、どこで仕入れてきたか孫の小2男子がごはん粒を箸で集めながら、・・ジンカンイタルトコロセイザンアリ・・だ、などとGBに説教するようになった。聞いてる方はジンカンとかセイザンっていう固いものなに?と聞き返すと、「きまってるじゃん、二つともおんよみだよ、知らないの・・」とグサ!。このごろ「・・なんとかサバイバル」などの類を読んだので試してるのかな、と一瞬迷っていると「漢字で書くと、にんげん と あおやま だね、アリはくんよみだア」と解説してくれた、オヤマア。
― 行きたい近場 ―
秩父鉄道~ながとろあのいわだたみ♪~三峰山(fS入社同期の仲間と2回行った)、妙義山(中学泊遠足)~鉄道文化むら~碓氷峠、足尾銅山~谷中村~渡良瀬遊水池―
―おわりにひとことー
このところろうどういよくがわいてきていますのでざんねんながらひくやまはいきんぐのきかいはへってきておりねんにごかいぐらいになりました。
ちくま会 リレーエッセー No.8
卒業から50年が過ぎて 2021年 8月 23日
関東同窓会 理事 馬場昌信
昭和46年電気科卒
私は、1971年(昭和46年)に卒業して戸田建設株式会社本社に入社いたしました。
この年は、戸田建設が創業90周年の年で7月1日の記念日には色々な催しや特別賞与が
支給されたことが思い出されます。
それ以来、10年毎に記念事業やお祝いが模様されて来ましたが、今年の7月1日に、
140周年を迎えることとなりました。それに先立ち、140周年プロジェクトのメンバー
により、色々な企画の検討がされましたが、その一つに140年史の作成がありました。
前回迄の社史の編集は社員が中心になって行っていましたが、今回は、外部に委託して
進めることが決まり、グループ会社の弊社にも取材協力依頼がありました。
(馬場は、2013年4月に戸田建設から現在のグループ会社に転籍)
弊社からは、戸田建設OBの営業担当役員と設備技術部門担当の馬場の2名が日経BPの
記者3名の単独取材を各2時間程受けました。現在140年史は発行になっていませんが
記者の上手なインタビューに乗せられて、50年を振り返る機会となりました。
これから、その思い出の一部を綴ってみたいと思います。
〇昭和46年4月1日に入社して、本社設備設計部に配属となり事務所ビルや当時ブームだった
ボーリング場の電気設備の設計を先輩の指導を受けながら行いました。
ボーリング場の設計は4物件取り組みましたが、その内の1物件は田町のヤナセ本社近く
にある東京ポートボウルで現在も営業しています。
〇その後、東京支店の建築設備部に異動になり、設備の施工管理の仕事に従事しました。
記憶に残る仕事の一つは、東京都下水道局の多摩川上流処理場建設工事で40万人の
排水を処理する処理場の機械棟と管理棟新築工事でした。先行する土木部門関係者に続き
建築部門関係者(設備部門を含む)が乗り込んで2年半常駐して設備施工管理をしました。
この現場は、定置式クレーンが10機以上設置されている大きな物件で今でも強く思い出と
して残っています。
〇次に思い出される物件は、その後自分の趣味の一つに発展する事になった仕事です。
当時、会社では新宿駅東口駅前にスタジオアルタの新築工事を設計施工で施工しておりました。
時を同じくして、小さな高級オーディオメーカーの中道研究所の本社ビルの新築工事があり自分が担当することになりました。
スタジオアルタ担当の先輩からオーディオに関わる指導を受けながら、この仕事にのめり込みました。
この建物には120席の固定席がある音楽専用ホールがあり、舞台では、ピアノ・チェンバロ等の楽器の演奏を生で聞かせると同時に調整室脇の録音室では、マスターテープに録音すると同時に中道の高 級スリーヘッドカセットデッキ120台に同時録音して、お客さんに録音テープを持って帰っていただける設備がありました。
この仕事では、生演奏をよい音で聞かせると同時に雑音のない録音をするために入力系統と出力系統の分離等に工夫をして工事を進めました。今の自分の趣味のオーディオの始まりはこの時にお付き合いした中道悦郎社長・中道の音響技術者と会社の先輩から学んだ技術から始まりました。
次に思い出のある物件は、4社JVで施工した日本航空の羽田空港大型第2ハンガー新築工事で自分は電気設備担当者として2年間常駐管理しました。
この物件は、世界で初めて1つの格納庫で2機種の飛行機を整備することが出来る施設を造る工事でした。この建物は、
間口が100m以上あり両サイドの柱で屋根を支える構造で飛行機の入り口は大型電動扉で開閉し、入出庫時は全開にすることができます。
大型旅客機ダグラスDC10(3発機)とボーイング747(4発機)の2機種の形の違う飛行機を格納庫に入庫後飛行機の周囲360度の整備が出来るように作業床を自動で制御して構成することが出来ます。(飛行機の乗降口の高さに合わせたサイド全体をカバーする電動水平デッキ・上部の整備をする電動吊りドック・尾翼周りの整備に使用する電動テールドック・下部の整備に使用する電動昇降床を飛行機の種類に合わせて自動で設置する事が出来ます)
又、飛行機は、通常ジェットエンジンを運転して発電・油圧制御をして運航していますが、格納庫の中では、ジェットエンジンを運転することは出来ませんので、外部から電源や油圧配管を接続して機能を確保して整備することになります。
電力会社から供給される電源は、日本では50HZ又は60HZですが、飛行機の電源は400HZ仕様が採用されており、そのまま供給することが出来ない事をこの工事で初めて知りました。
この建物では、地下の機械室にMGを設置して新たに400HZの電気を作り供給しました。
油圧配管についても同様に油圧装置を設置してステンレス配管で供給しました。
この現場では始めて知ることが多かったのですが、その一つが飛行機の整備に関する基準の多さでした。飛行機の整備の基準は飛行時間によって区分けされており、A整備~H整備に区分けされています。H整備は、一番重い整備で飛行時間5000時間毎に行われる整備で ボーイング747の場合、1日3交代で実施して1か月半かかる整備です。(エンジンは整備されたエンジンに交換、内装は全て一度外してスケルトン状態にしてボルトの締め付け確認窓の取り付け確認等をして、不具合が見つかれば、修理する整備です。)当時、大型旅客機が増えている時期でしたから、工期厳守で進めたことを思い出します。又、この現場では忘れられない事があります。
それは、先輩の皆様もご記憶にあると思いますが、1982年(昭和57年)2月9日に発生した日本航空350便墜落事故です。日本航空のダグラスDC8―61型機が羽田沖に 墜落した事故です。(福岡空港発・東京国際空港行の定期便で片桐機長が逆噴射して墜落した事故)当時、自分は羽田におりましたし、モノレールで通勤していましたので、強烈な印象があり忘れられない思い出です。
〇次は、千葉県長生郡長柄町に建設した日本エアロビクスセンターです。
当時、民間が作る最大のスポーツ施設でした。屋外に建設する400mトラックのあるグランドや全長11Kmのジョキング ロードは、土木系の他社が施工しましたが、メイン施設となる日本エアロビクスセンターは私の会社が担当しました。屋内トラックのある陸上競技場・プール・エアロビクススタジオ・シャワールーム・日焼けサロン・エステ・大浴室・大型レストラン等を備えたトレーニング施設でした。ここでも電気設備担当者として担当しましたが、新しく勉強することがたくさんありました。この施設は、その後ソウルオリンピック前にアメリカ選手団がソウルに乗り込む前に、キャンプを張った施設で現在も運営されています。
〇次は、某大手証券会社の電算センターの新築工事で、上司の指示で自分が積算から施工管理まで全て対応した工事で自分 史上最大金額の工事です。全体工事金額の60%が設備工事で、1期工事・2期工事の合計4棟を担当しました。
最先端設備は、全て2重化されており、商用電源が停電しても全ての設備がガスタービン発電機で連続運転出来る用になっておりメンテナンスも停電させないですることが出来る様に工夫されています。この仕事で関わった大手設計事務所の担当者・協力会社の担当者とはその後、良い関係が続いています。もう仕事をリタイアした人も多いですが、まだ関係が続いている人もいます。大手設計事務所の当時の若手担当者は、昨年春に代表取締役に就任しました。当時の仲間が頑張っているのを見ると自分ももう少し頑張って見ようかと思います。
〇その後は、音楽ホール・スポーツ施設・電算ビル・事務所ビル・病院・大学施設・工場(クリーンルーム)等の施設を数多く担当しました。
〇そして直接の担当者として関わった最後の物件が葉山御用邸の近く(旧高松宮別邸後)に建設した神奈川県立近代美術館の葉山館です。当時、神奈川県立近代美術館は、本館が鶴岡八幡宮の境内にあり、近くにある別館とで構成されていました。
本館の老朽化が進んだことから、美術館としては、全国初めてのPFI工事(30年間の維持管理やレストラン運営をむ)として既存の美術館を含めて計画されました。
この美術館の施工にあたり、設計者と全国にある主要な美術館の見学に行き、館長・学芸員との打合せを重ねて造りこみを行い施工いたしました。この美術館には、開館後に家族で何度か訪れましたが、思い出のある物件となりました。
以下に「神奈川県立近代美術館葉山館_外観」の画像を掲載いたします。
〇その後は、管理職として設備部門の責任者として、大型物件の受注から立ち上げ業務に
関わることが多くなりました。2013年4月に今のグループ会社に転籍した後も、
同様な仕事を続けております。卒業して50年は、あっという間の様な気がしますが、
思い返すと色々な事がありました。これからも、しばらくは健康に気を付けて頑張って
行こうと考えております。皆様も先の見えないコロナ禍での生活ですが、お元気で
お過ごしいただきたいと存じます。
以下に「神奈川県立近代美術館葉山館_航空写真」の画像を掲載致します。
ちくま会 リレーエッセー No.7
温故創新―私たちの未来 2021年 8月 12日
関東同窓会 理事 坂口光治
昭和41年電気科卒
坂口幸治氏 近影
温故創新―私たちの未来(感謝と祈り・断捨離とワクチン)
「今日あるが如く、明日があると思うな」私の知人の重い人生訓である。私たちが授かった自らの生命(いのち)を、限りある人生(時の流れ)の中で、何のため(誰のため)に如何様に生かすか(使うか)という命題を投げかけているからであろう。
鴨長明(1155年生~1216年没)は「方丈記」の中で、「諸行無常」という仏教的概念を「ゆく川の流れは たえずして、しかももとの水にあらず、よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて 久しくとどまりたるためしなし 世の中にある 人とすみかと またかくのごとし」と表した。いずれも自らの「死生観」に問いかけてくる。
約138億年の歴史をもつといわれる大宇宙や銀河そして太陽、私たちが住む地球や動植物を含むすべての大自然(森羅万象)は、常に流動変化するものであり、一瞬といえども同一性を保つことはできない。このような大宇宙や大自然の中で私たちは(奇跡的に)生まれ、それぞれの人生を(懸命に)生きている。
約20万年の歴史をもつホモサピエンスにも様々な危機が立ちはだかる。1968年に米生態学者のギャレットハーディン氏は、共有の資源を巡って、個人の利益を追求しすぎるあまり、全体としては不利益を被ってしまうことへの警鐘を「共有地(コモンズ)の悲劇」の概念で表した。78億人の人類の未来にとって地球全体が「コモンズ」、人類や多様な生物の「共有惑星」であるという認識が極めて重要になりつつある。
1918年から1919年にかけてのスペイン風邪では、世界人口の約50%が感染し、全世界で4千万~5千万人が死亡したといわれる。 現在世界を震撼させている新型コロナウイルスは、427万人余の命を奪っている(8月8日現在)。「コモンズ」での「人類の繁栄」の中で、感染症の世界的パンデミックも周期的に起こることを私たちは学びつつある。
国連加盟の193ヶ国はSDGs「誰一人取り残さない」を共通理念に2030年までに達成を目指す17の目標(169のターゲット)と達成を測る232の指標を示した。貧困をなくす、飢餓をゼロに、健康と福祉を、質の高い教育、ジェンダー平等、安全な水とトイレ、住み続けられる街、気候変動対策、海の豊かさ、陸の豊かさ、平和と公正などである。人類が掲げた叡智の光(聖火)であるが、その実践と成果がまずワクチン接種で試されている。
東欧の詩人ゲオルグは「たとえ地球が明日滅びるとも、君は今日リンゴの木を植える」との言葉を遺した。私は今、妻との日々の暮らしの中で、緑に覆われた庭木と色とりどりの草花の命を感じながら、毎朝仏前に向かい〇46億年の歴史をもつ父なる太陽と、母なる地球の恵みに感謝し、持続可能な地球社会をめざしてまいります。〇 妻および家族・親族・友人・知人の健康長寿を心から祈ります。〇1憶2700万人、日本国民の平和と安寧、健康長寿を心から祈ります。 〇78億人、世界の人々の平和と安寧、健康長寿を心から祈ります。などと自ら唱えながら日々「断捨離」に取り組み、7月にはワクチン接種を終えた。
コラージュ(坂口氏作成)
ちくま会 リレーエッセー No.6
「あなたは虹」楽曲作成 2021年 7月 30日
関東同窓会 HP運営委員 S.Motegi(ピンチヒッター)
昭和39年機械科卒
連日感染者が急増する感染爆発とも言える状況の中で、関係者の辞任、解任等が続き異例ずくめと言われた、東京2020オリンピックは、ダイバーシティ&インクルージョンを基本コンセプトとして始まり、既に折り返し点まで進んできました。
13年ぶりに復活したソフトボールは、北京大会に続き強国アメリカを下し二連覇を成し遂げ、新規に取り入れられたスケートボードで13歳の女性が、最年少で金メダルの獲得を果たしました。
また、女子水泳個人メドレーでは400mに続き、200mでも大橋選手が金メダルを獲得し二冠に耀きました。等々、話題は尽きませんが…。
五年間にわたり、あるいは13年にわたり自らの存在意義をかけ、血の滲むような努力を重ねてオリンピックの舞台に立ったアスリートたち、 さらに挑戦するも舞台に立てなかった多くのアスリートたちのためにも、東京都主催のこのイベントが、彼らの努力に報いる大会となるよう、一人の市民として重ねて心からエールを送りたいと思います。
1990年後半、バブルがはじけ経済的にも、また先の見えない社会状況の中で、特に若者たちにとって厳しい時代。そんな時代の風をもろに受け、かつて私が担当したプロジェクトや、周辺の若いメンバーたちにも落ち込んでいく方が少なからず存在しました。そんな彼らへのエールと、彼らには目の前にある厳しさをなんとか凌ぎ、辛くても「生きていて!」との想いを込めた詞を、いくつか紡いで来ました。
その後2008年リーマンショック、さらに2020年からの新型コロナ感染症に伴う事業所閉鎖、倒産、雇止め等々、厳しい状況はかつての時代と変わらず、厳然として今も存在しています。
かつて紡いだ詞の背景は今もそのまま存在しており、そのうちの一つ「あなたは虹」は、「母」の立場から吾が子へのエールとして生まれたものです。その詞を少し手直しして、ネット仲間の作曲、歌唱等々それぞれの得意技を結集し、ひとつの曲としてまとめ上げることが出来ました。文字通りアマチュアの仲間たちで仕上げたものですが、皆様に視聴して頂ければ嬉しいです。
WEB、ネットは色々な可能性に満ちています。それぞれの方の得意技と言いますか、個性をネットを介してぶつけ合い一つのものを、作り上げることが出来るのだとの確信を、ささやかながら持つことが出来ました。
なお、「あなたは虹」の作詞に当たっては、ポップス歌手、工藤慎太郎さんの楽曲「旅の途上(なか)」のCD発売の際、ペンネームとして「ショー・ジロー」を頂きましたので、今回もそれを踏襲させて頂きました。作曲&歌はyokiさん、ギター&ハーモニカはじいじさんに担って頂きました。改めて感謝申し上げます。
「あなたは虹」の曲は
以下の「横三角」をクリックしますと「Youtube」を視聴できます。
「あなたは虹」
作詞*ショー・ジロー、作曲&歌*YOKI 、ギター&ハーモニカ*じいじさん
1.人の冷たい仕打ちに泣いて
たとえひと時沈んでも
生きていて!
その思いは変わらない
あなたは虹 私の私の希望
ツンドラの凍てつく大地を
切り裂いて 萌える双葉の
たくましい
命をあなたも宿してる
信じてる
羽ばたく翼 磨いていると
2.人の悪意に打ちのめされて
たとえひと時倒れても
生きていて!
その思いは変わらない
あなたは虹 私の私の希望
水も無い砂漠の果ての
サボテンに 芽吹き花咲く
たくましい
命をあなたも宿してる
信じてる
羽ばたく翼 広げる時を
3.人の酷さに傷つきながら
たとえひと時篭っても
生きていて!
その思いは変わらない
あなたは虹 私の私の希望
核の火に半身焼かれた
夾竹桃 それでも花咲く
たくましい
命をあなたも宿してる
信じてる
翼を広げ 舞いゆくことを
あなたは虹 私の希望 了
ちくま会 リレーエッセー No.5
「同期会・同窓会はいいもんだ」 2021年 7月 7日
関東同窓会 機械科部会事務局長 栁澤今朝雄
昭和39年機械科卒
ホウレン草をたくさん摂れば、ポパイの様に体が元気になります。
報連相(報告連絡相談)を友人から沢山取れば、心が元気になります。
私が以前勤めていた会社の同期の会は、交流を始めて50年以上も続いており、互いの近況をSNSに投稿して報連相し合っています。本人が旅立たれた、連れ添いに旅立たれた、闘病中の人など、人様ざまです。
今までは年に何回か飲み会を行い、酔いが回ると、「お前の葬儀委員長は俺がやってやる!」等と意気込む元気な仲間もいました。
同期会や同窓会でこの様な友人知人を持ち得る人生はなんて幸せな事でしょう。
と私は思います。所がです・・・・。
ネットで「同窓会とは」と検索してみると、とんでもない内容の記事が存在していました。M電気会社社長のもとで側近として過ごしたH氏の書下ろしの第一回目記事。
「旧友を捨てる勇気」についての記述。
タイトルは 「同窓会に蔓延する病気・死・懐古主義というもの。」
道徳的な物言いとしては「何歳になっても、旧友を大切にしなさい。ふるさとの同窓会にはなるべく出席して旧交を温め、関係をつないでおきなさい」というものだだろう。しかし私は、60歳を過ぎてから小学校や中学校の同窓会にはほとんど出席しなくなった。50歳代でうんざりしたこともあり、出席する気にはなれない。だからこれから50代になる人には「50歳を過ぎたら同窓会にはでないほうがいい。」同窓会に行けば、たいてい病気、薬、昔話、墓、死の話しばかりだから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・とアドバイスをしたいという事です。
同窓会というのは前向きの明るい話につながる事がほぼ無いからだというのです。
本当に可哀そうですね、そんな同窓会にしか参加できなくて。自分の経歴を武器にこんな発信をすべきでないですよね。・・・というか、そんな同窓会にしてしまったのは自分ではないと言わんばかりですよね。
我が、関東同窓会は、一回参加すれば、来年も行ってみるかという気分になるのです。思わず反論したくなりました。反論はこれ位にします。
さて、今回この千曲会の企画のリレーエッセイをバトンタッチするにあたり、この企画のリレーエッセイの内容としてはいささか、的外れな所もありますが、そこは多めに見て頂いたく思います。
冒頭にお話しした50年以上も続いている同期の仲間への私の投稿内容は、趣味の家庭菜園での野菜つくりの話、花の栽培、日常生活での気になった会話等を「習慣新聴」という新聞形式で投稿しています。
「習慣新聴」<—-クリック願います。
その中で「やーさんちの話」と題して暮らしの中でおこった家族間の会話をコント風に書きあげた過去に投稿した130の中からの幾つかを今回紹介したいと思います。
リレーエッセイとしてふさわしいか、少々疑問であると思いつつ書いてみました。
私位の年齢になると、三世帯で住んでいる方も結構多く、お孫さんが身近におられると思います。夫婦間よりも、生意気な孫との会話で面白い場面が多く、色々と体験できます。**********************************************************************************
登場人物は少々生意気な年ごろの高校生の孫(MG)
私本人、祖父のジージ(GG)
私の妻、祖母のバーバ(BB)
の三人が中心です。
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①故郷佐久からの漬物
◎佐久の実家から野沢菜漬が送られてきた。高校生の孫はこれが小さい頃から好物で特に浅漬かりを好みます。今日の食卓に出ました。今、期末試験中ですが余り本腰を入れていない様だったので、注意しました。
GG「いま、期末試験中なんだろ。どうせ普段勉強していないのだから一夜漬けでもいいから、やりなさい!」
MG「俺は一夜漬けでなくあさ漬けの方がすきなんだやな~。明日は早く学校に行ってやるわ。
これが本当のあさずけ。」
GG「ったく!!!」
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②夫婦間の事
◎朝刊に載っていた”夫源病”というのは退職した夫からくる妻のストレス病の事だと話した時の会話。
GG「この病をBBは知っていたの?」
BB「知っていたわよ。私にはこの病は無縁だわ。」
GG「どうして?」
BB「GGが居た方が便利でしょ。要は上手く操縦すれば何という事はないのよ。」
GG「・・・操縦という事か。ところで”妻源病”というのはないのかな。」
BB「我が家にはその病は無縁だわ。」・・・と自信満々気に言ってのけた。
この方は一人よがり、自信家、勝手な人、独裁者、無知な人、能天気、楽天家。夫婦間の会話では”非勝三原則”の姿勢、勝たない・勝てない・勝ちたくないという姿勢が大切らしい。皆さんのところはいかがですか?
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③孫との生活
◎市の防災無線で行方不明の老人の情報提供放送が流れていた。なんと60歳の老人だという。
考えさせられますね。
又、同日IPS細胞を使い臓器の修復ができるという事をテレビで放送されていた。私は右目の調子が悪いので、
このIPS細胞を使い修復ができればと話した。
GG「あのIPS細胞の技術で、もしかしたら右目は治るかもしれないな。」
MG「まだ先の話しだよ。」
GG「俺の生きている内にできればいいな。」
MG「GGにはもっと早く必要なものがあるよ。」
GG「何だ、それは?」
MG「GPS。徘徊老人行方不明の時の探しに使う為。」
GG「ばか!」
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④年老いた事
◎年一回の定期健康検診を近くのかかりつけのクリニックで妻と一緒に受けた。検査は二人揃っての同時進行です。
その時の看護師さん(NS)とドクター(DR)との会話です。
血圧測定
GG「若い看護師さんに測定されると年甲斐もなく緊張しますね。血圧は高めになりますかね?」
NS「(笑いながら)分かりました。血圧値は少し低めに記録しておきますね」
採血の時
GG「うちの奥方は血の気が多く、すぐにカットなり怒ります。多めに採血してください。」
NS「分かりました。標準より多く採りましょう。」
レントゲン結果
DR「奥さんの肺は綺麗に映っています。
BB「よかった。」
GG「心臓に毛が映っていませんでしたか?」
DR「写っていませんね。」
BB「・・・・・。」
面白いドクターです。ここでは、外科、内科、皮膚科を診察してくれます。
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◎このところ暑い日が続き外の涼しい風を取り入れる事が多くなった。
私の家も築20年以上も経ち、開け閉めのレバーの動きが固くなってきた。妻が、私にこのレバーを直して欲しいといった時の事。おりしも聖ルカ病院の日野原先生が105歳で亡くなったとの訃報がテレビで報じられていた。
BB「このレバーの動きが悪いので直してくれる。」
GG「潤滑剤でもかけてみるか・・・。どお?」
BB「あまり変わらないわ。」
GG「この家も年をとったからな。」
BB「でも日野原先生は105歳まで活躍したのよ。」
GG「先生と比較するなよ!」
BB「あなたの膝関節も固くなったことだし、仕方がないか・・・。」
GG「俺の関節と比較するなよ!」
とことん、なんでも比較する冷(令)夫人でした。
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という事で、このコント風な記事は2015年から今も続いています。
どうか皆さん、報連相を沢山取り、心も体も元気になりましょう。その為に
早くコロナ渦が収まり、千曲会が秋口に開催されることを期待しています。
合わせて、2021年6月に投稿した習慣詩を添付しますので見てください。 了**********************************************************************************
ちくま会 リレーエッセー No.4
「この混乱はコロナのせいか? 人は?! 」 2021年 6月 17日
関東同窓会 事務局長 中村享二
昭和44年機械科卒
中村享二氏 市総大講演風景(1)
ご多分に漏れず昨年の中盤からコロナ、コロナでスケジュールが大混乱となり、今年度からは全講座開催を目指す我県下の某市、市民総合大学での受持ち講座の前期が先日無事終了したので催促されていたリレーエッセー原稿をしたためています。
そこで先日の講座も含めFP(ファイナンシャル・プランナー)対応分野の内、私が取り組んでいる「相続・事業承継」絡みの講座をやりながら改めて思ったのは、相続に限らず世の中で起こっている出来事は”時流” (過去からの森羅万象)と”人情”(人の意識・考え方)とが表裏一体、且つ有機的に太い糸で編み込まれており、その結果の中で我々は今を生きているんだ、と言う思いです。
同時に、これが厄介ですが、あるタイミングで我々人類が築き上げた”人造物”とも言える文明社会に対し地球規模で様々な外的要因(自然災害、パンデミック・・・)が警鐘を鳴らしにやって来る、と言う現実です。そんなことから私の相続関連の話の中でも時代の変化と備えの大切さを説明する中で「次の危機は姿を変えて現れる」と言う言葉とセットで”現代日本を生きる我々にとっての「3大リスク」”と言う中村造語を紹介しています。その内訳は
1.自然災害(地球温暖化、異常気象、地震、火山、人新世・・・)
2.テロ(交通事故、無差別犯罪、サイバーテロ、ヘイトクライム、パンデミック・・・)
3.認知症(超長寿社会、認々介護、認々相続・・・)
「いつか」でなく「いつでも」起こり得る可能性を内包し何が起きるか分からない今の時代、これらのリスク(危機)にはそれぞれに対する”認識”と”備え”が大切です。相続で言えば我々が相続を迎えるその時(万が一の時)、時流の変化と共に変わってきている次の世代の相続に対する考え方(意識)を理解した上で、元気なうちから対策(備え)を講じておくこと(具体的には遺言書で”争族”を防ぐこと・・・etc) が必要です。相続対策は”その時”になってから慌ててやってもうまく行きません。又、備えには手間も時にはコストも必要です。
今「人新世(じんしんせい)」と言う事が言われています。これは我々人間の歴史とは別の地球の歴史(地質学)区分で、地球に対し”人の活動”が大きな影響を及ぼしている、事から名付けられた言葉だそうです。―参考(地質学上の概略区分:先カンブリア時代から古生代、中生代と続き現在は新生代の第4紀で更にその中の完新世に当たり人新世はその次の区分の位置付け。言葉そのものは20年前に提唱される)― この意味するところは、昨年2020年に地球上の人工物の総重量が生物のそれを上回り、その約60%が地表を覆うコンクリートとアスファルトだそうです。20世紀の初めは生物の3%に過ぎなかった人工物が産業革命を経て工業化、大量消費が進んだ2次大戦以降の急拡大が顕著で、そこからが人新世区分スタートと言う事らしいです。そんなことを聞くと地球温暖化、異常気象、自然災害等々もさることながら最近我々の身近でも大雨の度ごとによく耳にする「急に増水した中小河川に軽自動車ごと流され人が行方不明・・・云々」などと言うのも”ひょっとしたらそれが原因 ? ”と思ったりもします。
昨年来、コロナ過が世界中に様々な問題、課題を投げかけ混乱しています。まさに非常事態です。しかし発生一年半ほど経過した昨今の状況を見ると、国別の克服状況に差が出ています。日本は流行当初、欧米等に比べ国民意識の高さか、生活習慣の違いかどうか一桁も二桁も低い感染率と死亡数でした。しかし残念ながら今や、頼みの綱とも言えるワクチン接種において先進国として大きく後れを取っており未だコロナの出口が見えず、間近のオリンピック開催も右往左往している状況です。あの懐かしい響きの”事業仕分け”の結果かどうか、常日頃からこの様な非常事態対応を想定した社会全体(行政、企業、個人含む)の仕組み構築や法整備もなく、更にワクチンの開発・製造体制もなく、全て輸入だよりの我が国としては当然の成り行きかも知れません。
ウイルスは人類より前からこの地球上にいたと言われています。その数、人絡みでも39種類、動物等を入れると5,600種類も有ると言われています。だとしたら我々人類はウイルスの存在を前提に、言うところの”ウィズ・コロナ”(ウイルスとの共生)を模索するしかありません。その為には何が必要か、少し考えてみました。コロナに限らず危機は多種多様です。そして「危機が来たら全力で対応する!」勿論これは必須です。しかし姿を変えてやってくる危機に対して”起きてからの対応”には限界が有ります。やはり非常事態となり得る危機に集団を挙げて仕組みとして対応するには非常時になってからでなくその前、”平時”からの備えが大切です。確かな時流観察眼(歴史認識)と科学的根拠の元、”いざ”となった時の対応体制が柔軟にとれる平時からの仕組み(備え)構築です。そして生き残るには”現状最適”だけでなく”将来最適”も必要です。これが出来るのは地球上で我々人類だけです。
右肩上がりの業績と効率化追求社会にどっぷりつかり、目先の利益優先の中で生きて来た我身にとって思うのは、我々が今置かれているのは”定常型社会”だと言う変化への認識と、いつでも起こり得る危機に対して生き残る為には平時では”ムダ”と思えるコスト、制約、忍耐そして仕組み構築への理解と協力(投票による意思表示含む)をする姿勢に”宗旨替え”する事でしょうか。
何とはなく一市民としてはこれが精々かな、と思ったりしています。でもしかし、そんな小さな我々一人一人の意識改革が”民意のうねり”となり備えが講じられ、姿を変えてやって来る3大リスクの発生に対し最小限の被害で押さえられるのであれば、これはこれで危機に対する“人類の勝利”と言えるのではないでしょうか。
人類が存在している限り危機はつきものです。その都度それを言い訳にしているわけにはゆきません。重ねて言いますが我々”人”が対処するしかないのです。今回の危機で改めて、コロナもしたたかだが我々人間はもっと、もっとしたたかになる必要が有るな! とつくづく思いました。
(梅雨入り直後の6/17日、自宅書斎にて) 了
中村享二氏 市総大講演風景(2)
ちくま会 リレーエッセー No.3
「高校時代の思い出」 2021年 5月 17日
関東同窓会電気科部会長 坂田和夫
昭和47年電気科卒業
「M君の塑像:坂田和夫 作成」
私が上田千曲高校に入学したのは、今から、52年前の4月で、卒業してからは49年経ちました。当時、上田市の下川原柳町に住んでおり、市内の上田第三中学校に通っておりました。
上田千曲高校に進学希望をしたきっかけは、高校を卒業したら、就職して働こうと思っていたからです。ですから、特別に上田千曲高校に思い入れがあった訳ではありませんでした。就職に有利なのは、やはり実業高校で、工業高等専門学校(通称:高専)を受験する能力もありませんでしたので、地元で、建築科、機械科、電気科、商業科、家政科という実業科が揃っていることもあり、上田千曲高校の受験を希望したのです。
受験する学科を選択するにあたり、就職に有利な学科はと考えたときに、当時地元東信地区では、上田日本無線、山陽電気、東京特殊電線(通称:東特)、松下電送、中部電力等、電気関連の会社が結構あり、電気関連の部品工場も多かった事情もあり、電気科を受験することにしたのです。受験科目は国語、英語、算数、理科でしたが、本当は、社会の方が得意だったため、若干不安がありましたが、何とか合格することが出来ました。
何せ50年以上も前のことですから、校舎は今のような立派なものではなく、木造建てのものでした。電気科では2組でしたが、私たちのクラスは、結構新しい、製図室を兼ねた部屋でした。
「高殿(たかどの)」と呼ばれた建物で高校生活をスタートし、昼休みには、先輩からの「焼き入れ」の儀式があり、先輩、後輩のはっきりした区別を教えられました。 また、上田千曲高校応援団の「応援歌」なども半ば強制的に覚えさせられました。応援団長の「千曲清流の舞」に合わせた応援練習もあり、今思えば懐かし思い出です。高校2年の時には生徒会の書記として忙しい毎日を送る中、美術班の一員として楽しく活動してまいりました。
高校入学当初、クラブは、野球部、柔道部からの誘いもありましたが、中学校、上田三中の一年生の時に、野球部に所属していましたが、サッカー部が強く県大会にもいくレベルであった為、グランドで、野球部とサーカー部が同時に使うとなると、危険という事で、私が中二になった時に野球部は廃部となるという苦い経験もしておりましたので、野球部には入部しませんでした。また、中二の時、野球部が廃部になった為、仕方なく、柔道部に入部し、柔道をやっていましたが、中三の時、体を悪くし、試合には出れずここでも苦い思いをしておりましたので、柔道部にも入部しませんでした。
中学の時に、柔道と併せて、美術をやっていましたので、高校では文化クラブである「美術班」に入部しました。美術をやり始めたきっかけは、小学校のとき、図工で、ニードルで描写し八画のように写し取る「エッチング」が好きでやったことに始まると思います。写真にある、塑像の写真は、中学校の同級生のM君をモデルにしたもので、塑像自体は、このM君に教わりました。M君とは、柔道部でも一緒に汗を流しました。
M君の影響もあり、彼とは別の高校になりましたが、私も美術を続けました。彼も本格的に美術を続けていたようで、高校を卒業すると、造形系美大に進学し、大学を卒業してからもドイツ留学等をへて、その大学の教授にもなっています。
高校での美術班での活動は、先輩について、木炭デッサン、人物画(油絵)の習作、スケッチブックを持ってのハイキング、平面構成デザイン、レリーフ制作、千曲祭の共同展示物制作、市美術展への出品作制作、ろくろを使った湯呑(うつわ)の作成等、いろいろありました。
文末に添付した写真にある「日本」は、千曲祭に出そうとデザインしたものです。当時、「ディスカバージャパン」というのがはやり、日本再発見の視点から「歌川広重」それからヒントを得、ポスター風にデザインしたものです。
一年先輩には優秀な方が多く、東京芸術大学、武蔵野美術大学に合格する先輩が出た程です。同じ電気科の一年先輩の美術班のT班長も美大にいける実力をお持ちの方でしたが、地元で就職されました。しかし美術は続けられ、仕事を退職された現在では、県内でも有名な「農民美術作家」として地元上田を中心に活躍されています。 そういうこともあり、高校の途中から、就職はせず、大学に行きたいと思うようになりました。特に美大を受験したいと思うようになり、木炭デッサン、平面構成等のデザインの実技、英語等の受験科目を勉強する様になりました。
しかし、美大の競争率は高く、壁は厚く、現役、一浪の末にも合格は出来ませんでした。これ以上の負担を両親に掛けては申し訳ないと思い、2浪の末、東京の一般の大学で、経済学を学ぶ事になりました。大学では、アルバイトと学校への往復と真面目にやっていたつもりです。
大学卒業後は、軽印刷系の機械の販売とメンテナンス、またその一年後には、光学系の会社に転職し、主に複写機の販売に携わりました。高校時代電気科で学んだ、真空管、トランジスタ等の電子の知識、また、強電の知識等が役に立ち、また、カラー複写機、デジタル複写機等を販売・研修を担当する中で、美術をやっていたことが役に立ちました(色の3原色、光の3原色等の色の理論、色調整の実施)。
仕事は60才で定年、65才までの再雇用を経て、現在は違う会社で働いておりますが、前の会社の在任中は、転勤・出向(大阪、福岡、沖縄、東京の子会社)が多く、落ち着いて、作品も制作することも出来ませんでしたので、これからは何とか、時間を作れるよう努力をして、毎年、7月に母校上田千曲高校の同窓生が実施している「総合作品展」への出品をめざしてまいりたいと思う昨今であります。 了
「日本」 坂田和夫氏 制作
ちくま会 リレーエッセー No.2
「裂地(きれじ)」 2021年 5月 7日
関東同窓会建築科部会長 荒木重俊
昭和33年建築科卒業
(写真:赤坂迎賓館)
毎週日曜日、8時のNHKの大河ドラマで江戸時代の岡部の農家の暮らしぶりを見ていると、私が小中学生の頃と生活が良く似ています。
私の村は田中駅より北に5キロmの北国街道の姫子沢です。家は農業・養蚕・家畜で冬場は父が大工をしていました。兄弟は5人で私は末子です。母は養蚕に長けていて(実家は種繭屋)、養蚕については母が先頭に立って家族に指揮をしていました。繭は春、夏、秋、晩秋蚕と年に4回収穫をしていました。 秋に稲の刈入れが終わり、野菜の漬物作業が終わると、母は糸取り作業を毎日々やっていました。(漬物は四斗樽3本、野沢菜・大根・しゃくし菜など大量に作るので大変作業でした)
「糸取り」:繭を大きな鉄鍋で煮て、繭6~8個まとめて糸を引揚げ木枠に巻き取る。
(繭玉1個で蚕が吐き出す糸の長さ、L=1,500m/個 糸は極細で蜘蛛の糸状)
「撚糸(より糸)」:織物に必要な太さの糸を、糸取りした糸を、数本を撚り合わせる作業。
父は母の注文応じこれ等の作業に必要な道具・工具を作り、蚕室の大部屋に多数配置していました。冬場は、姉達が母の製作した絹糸で(白絹織物)機織りを毎日々織り続けていました。嫁入支度の着物用として、兄は絹の背広を作成していました。これは自給自足の延長上で戦後しばらく行われていました。
村には水車小屋が3ヶ所組合毎に順番に利用していました。・米突き・粉挽き(小麦粉・こうせん用の大麦粉)
春先は、みそ・しょうゆ・もろみ絞りの手伝いを、全て母が中心で行っていました。私は母の手元で手伝いを(味噌・醤油の豆を煮る鉄釜は、五右衛門風呂並みの大釜です)する日々でした。これも、歳が離れてる兄・姉達の上位下達で常に私に来るためです。
私が上田千曲高校に通学するようになると、姉達が機織した白絹を、上田城北部の紺屋(染め屋)に染めの注文に通いました。(「紺屋のあさって」を多数経験しました。染物により、京都の染め屋に外注するために、日程が読めないようでした)。上田千曲高校の入学時に体力測定を行ったとき、チビな私は背筋力がトップでした。これも家事手伝いで足腰が養われたもの思います。
こんな様に育った私ですが、会社に入社当時は早朝皆の積算机の雑巾掛けをしていましたが、当時はこれが極当り前の事かと思っていました。今現在では、大変批判が起きるでしょうね。
昭和43年に国が元赤坂離宮を改修して外国人用の迎賓館として使うことになり、建設5社のJVを発足することになりました。そこで建設JVでは各社に業務わけをしました。私の会社の役割は、工務係(積算見積、工事発注、行程管理、調整など)が担当となり今後の業務全般を見渡すと、当時だれも経験したことのないものばかりでした。又各社からの出向担当者も30歳前半の若手ばかりで、今後どの様に工事を進めたら良いか苦心したものです。
この建物は、紀州 徳川家の江戸中屋敷であった敷地の約半分を使用して、明治42年に東宮御所として完成しました。後に昭和43年から昭和49年迄改修工事を行い「迎賓館赤坂離宮」となりました。現在は国宝指定になっています。
改修工事の概要について 基本的には創建時のまま残す方針。
外部工事 屋根 銅版を葺き替えた。銅板製の飾り金物は補修。
下壁 花崗岩の目地取替え、サンドブラストで清掃
外構 花崗岩の敷石 せせらぎ工事 噴水の修理
内部工事 床 寄木の張替 モザイック大理石の補修 じゅうたん敷き
壁 石膏レリーフの補修 塗装工事 金箔の押し直し七宝焼
天井 天井絵画の修復
開口部 既存木製扉窓補修
設備 ・空調設備を新殺 ・シャンデリア(全てフランス製) 分解修理 ・暖炉 大理石研磨、修理
裂 地(きれじ) ◎裂地については、創建当時に「完全復元」の方針で施工した。
開口部 窓カーテン、窓掛け、レースカーテン
壁 裂地の張替
私は「裂地」について、実家にいた時、養蚕・糸取り・機織り・染色と、実際に見て体験しましたので、大変興味がありました。そして京都の川島織物を見学したとき、実家で父が母からの注文で作成した道具・機器類が全く同機能で電動化して稼動しているのでびっくりしました。
一般に内装工事(クロス)の工事発注は専門工事業者に見本・仕様所・単価を決めて発注し裂地(クロス)の製造工程などは知らずに業者任せで施工していました。
ところが、当「赤坂離宮改修工事」では、創建時から残っている「裂地」を完全復元することになりました。そこで、京都の織物会社、川島織物・龍村織物に相談して、同社に調査依頼することにしました。
調査は既存見本を基に裂地の織り方・染色・糸の太さ・糸のより等を裂地ごとに分解して調べ揚げました。そして、その裂地がどのような”織り方”かを図面に起こす作業。次は、その裂地の絵柄(紋図)を図面化しなければならない作業が大変なものでありました。当館の裂地は全て「絹糸」で織られています。
裂地は、織り方・染色・糸の太さ・糸のより加減・手織り・機械織りなどより、様々な感触・質感・風合い(ふうあい)等が異なる裂地に出来上がります。
特殊な織物
〇ゴブラン織り(綴錦・つずれ錦)建設当初はフランスのゴブラン社から輸入したもので、これを完全に復元した。 織り方:中指の爪で織る。織り高=1人巾で15mm/日。色数:全800色=(実染色150+合せ色600)
〇金華山織り(ビロードの一種)ビロードの織り方で、立体化して浮紋様を作り出す。
〇一般のビロード織り 緯糸(よこいと)と平行して金属の針金を織り込み、後で金属棒
に輪奈状に絡まった糸を頭頂で切断する。切断された糸の小口がビロードの感触を出す。
今は、コロナウィルスに対応するのが最優先ですが、これが収束したら是非、美術工芸品の宝庫のような「赤坂迎賓館」を見学してください。当館には各部屋ごとに説明要員(シルバーボランティア)がいて質問に応じています。 そして明治以来日本の近代化を推し進めてきた日本人の逞しさが、この建物には刻まれていると思います。 了
ちくま会 リレーエッセー No.1
「一日一生」 2021年 3月23日
関東同窓会機械科部会長 髙橋忠正
昭和39年機械科卒業
株式会社シンク 取締役会長
「ちくま会」会員の皆様如何お過ごしでしょうか、「天災は忘れた頃にやってくる」でも、この頃は災害は忘れる間もなく襲ってくる。10年前の東日本大震災の傷が癒えないうちに、先日同じ被災地に再度大きな地震が襲いました。
又2020年春より新型コロナウィルス感染症が襲来、「非常事態宣言」が出されて、この間に私達の生活には大変な変化が要求されました。マスクの着用、手洗い、うがいの励行、旅行や懇親会、孫や、友人との集いの自粛、親族や親しかった友人や同僚、先輩の葬儀の出席自粛、テレワークの拡大等々大きな生活様式変化が進んでいる。私達みんながストレスを抱えての生活で薄暗い雰囲気が漂っている中、新型コロナウイルス感染環境を受け入れて、「ワクチン接種」がはじまりました。医療関係者から開始されました確実にコロナウィルスと闘う第一歩を踏み出しました。少し明るい見通し希望が出てきました。
その一方で日本のワクチン開発や製造が何時出来るのかの話題がほとんど出てこないのは日本政府の怠慢だと思います。
この様な環境の中で私は、自宅居酒屋・自宅バルを楽しんでいます、アルコール類は奮発して、最高級日本酒「百光」を手に入れる事が出来ました、百光を醸造するのは、山形県酒田市にある楯の川酒造。国内最高クラスの精米歩合1%の醸造技術をもっています「百光」はその技術を最大限に駆使し、山形県の酒造好適米である出羽燦々を精米歩合18%まで丁寧に磨き、『100年先まで日本酒の世界を照らす光であれ』という思いを込めて醸されました。
口に含んだ際の雑味の無い柔らかさが印象的です、最初に成熟したフルーツのニュアンスがあり、その後にアルコールのボリューム感、最後にはすっきりとした酸味が上質で印象的な余韻が長く残ります。
又ワインは奇跡のワイン 「ラ・ナラッサ」 ブドウの収穫時期を過ぎてしまった遅摘みブドウでワインを作ったところ、寒さの厳しい地域で、収穫の遅い完熟したぶどうの実が樹上で自然現象で凍ることで、水分量の少ない凝縮されたうま味が生まれ「奇跡の甘味」と称される極上なワインが誕生したそうです。
凍ったぶどうの実からは通常の1割近くしか果汁が絞れません。 しかも収穫時期を冬まで待つ間に鳥に食べられたりして収穫量は非常に少なくなります、この様なうんちくを読みながら、味わい深く自宅居酒屋してます。
又一方では「プラズマ放電電極デバイス」の開発をT社と共同で進めています、東京都市大学E研究室のアドバイスを頂き微細な汚染物やウイルスの吸着・捕獲除去が効率良く出来る電極デバイスです、今年は空気清浄機・エアコン等の搭載に向けて活動しています。
この様な思いを巡らしながら!コロナ禍の中「一日一生」を心掛けて行きたいものです。
政府による緊急事態宣言が解除にはなりましたが、ウイルスとのお付き合いは続きますがウイルス感染防止対策を励行しながら、ワクチン接種効果が功を奏して、近い時期に同窓会総会懇親会、機械科部会懇親会でお会い出来る日を願っています。 了
次回の執筆者は、今回の第11弾リレーエッセーを執筆頂いた、依田幹雄(昭39機)様に
推薦を依頼中です。決まりましたらここに掲載させて頂きますので、お忙しい中ですが
執筆等宜しくお願い致します。