![](https://uedachikuma-reunion.jp/wp/wp-content/uploads/2025/02/2001a.jpg)
水仙の香
如月の陽光が岬と、その背後に広がる群青の海原にふり注いでいる。南伊豆、爪木崎。未だ雪が消え残る、その岬の斜面を白と黄の水仙の花が埋め、葉の緑が柔らかな縁取りを添えている。白銀を抱え末枯れた伊豆の山なみをよそに、野水仙の群生は春の光を受けとめ溢れるばかりに輝いている。梅の蕾さえ開かぬ寒風の中で、春の予兆をいち早く察知し花開く野水仙。その花言葉とはうらはらに、清楚な中にも気品ある輝きを放ち、芯の強さを滲ませている。
美少年ナルキッソスの伝説をもって語られる水仙、その花言葉は「自己愛」。泉に映った己の姿に恋をし、寝食を忘れ、やつれ果て息絶える。その自己陶酔はナルシシズムという言葉を生んだ。 この悲しいまでに自己陶酔に浸った姿にアドルフ・ヒットラーが、プーチンが、そして、二期目の政権を担う、かの方の影が重なって見える。
愛するものの為、自己の全存在を賭して闘うという、本来崇高なイズムであったヒロイズム。それは、ナルシシズムに結びつき、愛してやまない人々をも含めて自ら虐殺するに等しい愚を犯したことを歴史は教えている。そして、今なお人々を犠牲にしながら繰り返えされている。自らの身体と心に傷を刻み、血を吐く思いで「聖戦」の愚と実態を味わってきた父母達の世代。「大義の戦争」の愚劣さと、痛ましさ、さらには悲しさをベトナムへのアメリカの侵攻を通して知ってきた私達の世代。そして私達に続く世代の為に、この歴史的愚行を、これ以上繰り返させてはならない。今現在、AIを用い遠隔操作された無人戦闘機や、ドローンによる空中戦の下で、実際に血を流し死んでいくのは、私達と同じ熱い血をもった人間なのだ。
どんな時代にも、いくさ場で大義をかかげ、兵に「名誉の死」を強いる将や将軍は後方にあって自らは死なず、その将の一片の栄光の為に、多くの兵は名さえも記されず戦場の土と化してきた。愛する人の、またかけがえのない人の死に直面し、自らの悲しみと慟哭の思いを、その将の「栄光」に重ねて鎮めざるを得なかった多くの銃後の女性たち。そして子と親たち。
「大義」と死の虚構は、戦国の時代から、かの世界大戦、そして、近現代のベトナム、中東、アフガン、さらに、未だ続くイラク、ガザ、ミャンマーの戦場まで連綿と続いている。
ロシアが国際法を侵しウクライナに侵略を開始してから、この2月24日で三年目となる。ミサイルで破壊されつくされた街並みと、戦火の下で命を奪われ、悲しみに打ちひしがれる子供たちが、そして多くの人々が、未だなお厳然として存在している。
国際政治の力学もあり、中々停戦への糸口が見いだせない状況は、納得しがたいながら理解するにしても、世界の英知を集め一日も早い停戦が実現されることを切望したい。その際、侵略された国の民の尊厳と、誇りが保たれることは譲れない最低限の条件と考える。
自らの内にある人間としての尊厳は、他者の仲にも厳然として存在する。その尊厳の存在を、自らを省みて認識できる者こそ、尊敬に値する品格を備えた者と考える。この品格を欠いた国のリーダーが、昨今あまりに目につくと感じるのは一人私のみであろうか。もちろん私自身も、それを指摘するには未熟であり、未だ発展途上であることは自覚している。しかし、一国のリーダーたらんとする者には、最低限の資質としてこの品格を求めたいと思うし、希望でもある。
未だ消え残る雪に埋もれ、霜枯れる周辺の草原の中で、いち早く春の訪れを感じ花開く野水仙。自己を深く見つめ、そこに愛しさを読み取る感性。それは、他者の中にも息づいているであろう思いを見出せる、しなやかさをもっていなければ・・・。そんな言葉をつぶやくように野水仙は海に向かって揺れていた。そのかぐわしい香りは、さきがけの清しさを湛えていた。
2025年2月8日 S.Motegi(HP運営委員)