槿花一朝の夢
「槿花一朝の夢」
2022年7月29日
昭和39年機械科卒 S.Motegi
鎌倉の北東に位置する大倉山は夏の夕映えの中でなお濃い樹影を地に落とし、武士政権の創設者、源頼朝の墓(と言われている)は、その大倉山の南麓中腹に立っています。
現在進行形の大河ドラマで既に詳細に描かれていますが、伊豆配流から身を興した源頼朝。平氏追討の後、鎌倉幕府を開き征夷大将軍となり、その後、わずか七年後の正治元年(1199年)53歳で落馬により身罷りました。短いながら、正に波乱万丈の生涯を送ったもののふの生涯を、象徴的に刻む多層塔の墓は苔むし、夕映えに染まりながら質素なたたずまいを見せています。
墓の入り口近くに槿(むくげ)の群生が萎む寸前の五弁の花びらを、あるか無しかの風の中で揺らしていました。
純白の花びらに底紅をもつ宗旦槿は華やかな花姿に似ぬ、妙なる寂しさをまとっています。それは「朝開暮落」の花名が示すとおり、朝に花開き夕べに散る「ひと日花」の宿命から来る哀しみゆえでしょうか。夏の夕べ、ひと日という短い生涯を全うし散っていく花の風姿。それは苔むした頼朝の墓のたたずまいと共に、「槿花一朝の夢」を語るにふさわしい、儚さと気品に満ちていました。
短く儚いゆえに、生の限りを懸命に燃やした若者達の真摯な思い。その思いは争乱に明け暮れた源平の昔より、どんな時代の闇の中でも、それぞれに光彩を放ちながら時代の青春を貫いてきました。そんな若者達の思いと、強いられた「戦さ場」で闘うウクライナの民の想いを重ねてみました。
幾度かの慟哭の夜を重ね、吾子を抱え死と隣り合わせの生を、懸命に生きたであろうウクライナの女性達の想いが、また、わが子の戦死の報を涙を呑み込み受けとめざるを得なかった親達の想いが、響いてきます。諦念と呼ぶにはあまりに生々しく、重く烈しい魂の叫びが・・・。
再びは還れぬであろう戦場へ愛してやまない夫を、恋人を、わが子を送り出さねばならなかった女性たちと、親達の無念の思いが、その叫びと重なります。
2月24日、ロシアのウクライナ侵略の開始から既に5か月が過ぎていますが、ロシア軍がウクライナ東部2州の完全掌握を目指して攻撃を続ける一方、ウクライナ側は欧米の軍事支援を受けて抵抗を続けています。激しい攻防が続くなか戦況はこう着し、長期化するとの見方が強まっています。しかし、うち続くミサイル攻撃の中で、ウクライナの子供たちを含む無辜の民が連日命の危機にさらされ、命を落とす状況は依然として続いています。
国連をはじめとした世界の英知を結集し、ロシアの蛮行を一日も早くやめさせる具体的な行動が必要な時と考えます。
大倉山から眺める鎌倉の街並みは、夏の夕映えの中で淡いセピア色に染まっていました。七里ガ浜からの潮騒が聞こえてきそうな静寂の中で、むくげの花は今その花弁を閉じようとしています。一日と言う短くも、かくも典雅さに溢れた花の一世。それは、幾多の曲折を経て武家政権を打ち立てた後、わずか七年で没した源頼朝の無念に尽きる一世とも重なります。
夏の夕映えの中で静かにその花弁を閉じるむくげの花は、そんな無念の思いを、そして叫びを押し包むように萎んでいきました。朝に開き、夕べに散る槿花の紡いだ夢は、儚さの象徴かもしれません。しかし、それは戦乱の世も含めて、死と隣り合わせの生を懸命に、健気に生きた人々の燃焼の証でもあり、一瞬を永遠に重ねることを悟った凛とした気品と志の証でもあるかも知れません。 了