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「私が建築屋になった理由・・・」

「私が建築屋になった理由・・・」
   昭和29年建築科卒 小林 久

皆さんコロナ過のなかで、いかがお過ごしでしたでしょうか? いろいろな集会もほとんど中止に
なってすっかり出不精なってしまいました。このような状況下で関東同窓会を開催して頂き、
会長初め役員の皆様に感謝申し上げます。最近、私は直近のことを良く忘れてしまいますが、
昔のことは意外と良く覚えております。昔の話で恐縮ですが私が建築屋なった理由等を
お話させていただきます。
私の故郷は旧西塩田村十人、昭和10年6月28日生まれ87歳になります。昭和20年8月15日
終戦日は国民小学校4年生でした。朝から聞き取りにくいラジオにかじりついていた親父が
日本は戦争に負けた一口言って黙り込んだままでした。・・・玉音放送を聞いた結果だと
後で知りました。
戦後の小学校4年後期~6年生ごろまで黒塗り教科書で余り勉強した記憶ありません。小学校に
隣接する西塩田村中学校に入学しました。
千曲高校建築科に入ったきっかけは、中学1年生ごろ、木造校舎の建方を見ていた時、若い現場
監督が年配の大工の棟梁や鳶工の親方にいろいろと指示や采配をふるっていたニッカズボンに
ハンチング姿は格好よく、何となく建築を目指しました。

1.昭和26年4月千曲高校に入学した当時は、旧飛行場の格納庫を活用した講堂や教室、施設等も
整っているとはいえない環境でしたが、先生方はもとより我々生徒も意気軒昂でした。先生方は
教育の充実、施設等の整備、生徒の就職活動などで大変ご苦労されたことおもいます。そのような
環境のなかで
*高野校長先生 朝礼等で格調の高い講話
志を高く、勇往邁進(ゆうおうまいしん)目標に向かって屈せず前に進め
*久保先生 3年間  建築科の基礎や、建築屋としての心構えや、建築技術者として”ものづくり”
の原点を学びました。
*田中先生 3年生の時 設計を教わりました。先生の宿題は苦手のデッサンを毎週1枚提出でした。
先生は、現在の国会議事堂設計コンペに応募された時、徹夜の連続で応募に間に合わせ、仕事の
やり遂げた時の感激を話していただいたことが印象に残りました。
*宮崎先生 2年生・3年生  担任 国語
卒業後の進路など親身になって相談乗っていただいきました。
*千曲高校の教訓
・質実剛健 ・社会人としての協調心 ・職業的特質の伸長 ・品位ある個人の完成
は社会人として重要なことで、在学中は余り気にしていませんでしたが、先生方の講話、
授業のなかで自然に身に沁みついたように思いました。

2.昭和29年 建築科 29の会(にくの会)の仲間
*建築科に入学から今日まで約70年余り、今なお毎年29会が継続しています。
千葉近在の29会メンバー6名で毎月曜日を決め、5時から船橋・加賀屋で20数年続いています。
現在はコロナで休会中ですが再会が待ち遠しい今日このころです。
*昭和58年11月に卒業30周年記念には先生方にも出席していただき盛大に開催し、
「29の会会報」には先生方に寄稿していただきました。後ほどその一部を紹介させて頂きます。
*平成27年の「傘寿の集い」会では奥様方も参加され大いに盛り上がり、その際に元気で
「米寿の集い」で再会しようと約束しましたが、鬼籍に入った友人、体調不良の友人の便りが気に
なる昨今です。
・29の会が長続きしているのは、会長増田君と幹事杉崎君の二人がまとめ役と、
若い時はヤンチャで一言多かったが、お互いを尊重し、何か決めようとするときは自然に纏まり、
このような良好な人間関係が70年も続いています。
・千曲高校が発展途上のなかで良き先生方に学び、良き友人に出会い、いろいろ体験したことが
社会人となって「困難を乗り越える」原動力なっていたように思います。

3.私は、学校の推薦で、先輩が2人勤務していた東京の工務店に入社しました。
先輩方には大変お世話になり特に不満ありませんでしたが、仕事にも慣れたころ、「建築屋を
目指したこと・・・やってみたい仕事・・・」と現在やっている仕事にギャップを感じていた
ころに転職する機会が訪れました。

4.(株)大林組に幸いに難関を突発し入社することができ、43年間勤務しました。
*最初に配属された現場は素晴らしい所長、建築主任、班長と同僚に恵まれいろいろ指導を
受けました。
最初に出会った班長は人格者で後に副社長を歴任され公私に亘りご指導支援を受け我が人生の
師匠的な存在でした。
*現場は大規模で工務店時代の経験は役に立ちませんが、仕事に取り組む姿勢(何事にも
屈しない心)は変わりませんでした。若い20代に、会社の規則、仕事の取組み、先端の
施工技術に触れ、何事も新鮮で建築屋として「やってみたいこと」が見つかり一生懸命に
仕事に取り組みました。
*会社は、働く環境も整っていたことや、評価も公平で、当時、高卒の社員で本社の部長・
課長が在籍してこと、現場では所長・主任が活躍していたので仕事の遣り甲斐があり将来像を
描くことできました。

(1)百貨店、製鉄所、放送センター、鉄道関連、ショッピングセンター、事務所ビル、
超高層ビルなどの建設工事に約36年間関わり、内勤は生産設計部と工務監督室で約7年
従事しました。

(2)東京スカイツリーは開業して今年10年を迎えました。在職時代にタワーに採用されている
基礎杭工事や、タワーの心柱(制振)の工事の経験もありましたので興味を持っていました。
平成23年ごろ現場を見学する機会ありました。タワーの建設現場は生産工場のようでICT、
GPS、システム化、自動制御等々新技術等の進化は想像以上で品質管理・安全管理が徹底して
いたことには驚きました。建設中の地上350mの展望デッキでいろいろ説明を聞いたのは
昨日のことのような気がします。建設中に東日本大震災に遭遇した際に人身災害事故が
無かったこと、タワー等に影響が無かったことを聞き日常の管理が徹底していたからだと
思いました。

(3)東海道新幹線東京駅施設工事で、昭和37年~39年に従事したことは思い出の一つです。
*日本最初の鉄道が1872年10月14日(明治5年)新橋~横浜(現桜木町)間で開業し、
鉄道開業150年式典が10月6日に東京駅ステーションホテルで開催され、天皇・皇后陛下が
出席されましたと報道がありました。
*昭和37年ごろは、東京オリンピック景気で建設業界は超多忙で都内は至る所で建設工事が
行われていました。
*鉄道関連の工事は、列車の安全運行、乗降客の安全確保、作業時間の厳守等々厳しい制約の
なかでの工事ですが、新幹線関連工事は世紀の大プロジェクトで誇りを持って取り組んでいました。
工事は超多忙で竣工間際には昼夜兼行の連続で予定通り工期に間に合わせたこと時の感激は今も
忘れません。東京駅構内は至るところで工事を進めていましたので構内は暗く、埃っぽい仮設の
コンコースを大勢の乗降客は苦情や文句も言わずに通勤していました。
*現場は大組織で建築と土木の技術者約100人、事務が約20人計120人位従事し深夜工事
などで、社員の出入りも多く名前の知らない人もいました。私は班長で7人の部下と、プラット
フォーム上屋と駅施設工事を担当していました。当社関係の作業員は最盛期には800人~
1000人ぐらい働いていたので作業間調整や安全管理は大変でした。所長は会議では要点を
手短く、部下の報告を良く聞き、仕事を任せるタイプでしたが、部下の仕事を良く見ていました。
何時も冷静で、何事にも動じず、何時もどんと座っている所長は、事故や問題が発生すると素速く
対応する姿に接し勉強になりました。

(4)そのような状況下いろいろ見聞しました。
*東海道新幹線列車の試運転で始まり、プラットフォームに静かに滑り込むように入ってきました。
直近でみた新幹線の車両は斬新なデザインでスマートでした。その当時の時速は200kmと
記憶しています。
*東海道新幹線の運用開始は昭和39年10月1日で、プラットフォームでは、新幹線関係者による
出発セレモニーが行われ、満員の乗客を乗せ静かに出発していきました。私の新幹線初乗りは
1年後でした。
*オリンピック開会 昭和39年10月10日 皇居広場で聖火リレーの式典行われました。
*オリンピックの開催は全国で盛り上り、式典を見ようと大勢の人が集まり熱気を帯びていました。
後方からランナーの走る姿を見ることができました。オリンピック開会式に合わせ国立競技場の
上空に航空自衛隊「ブルーインパレス」が「五輪の輪」をきれいに描き出し、戦後日本の復興を
世界に印象づけ、忘れられない感激の瞬間でした。

(5)現在の東京駅は東海道新幹線が開通した当時の面影はほとんど残っていません。プラット
フォームと上屋の屋根は波型石綿スレートから鋼板に葺き替えられ、駅施設や改札口は自動化され、
コンコースは拡幅され混雑も緩和され、斬新なデザインの駅ナカは商品も豊富で何でも揃うように
なりました。
*上田に帰省する際に北陸新幹線23番線ホームから東海道新幹線ホームを眺め当時を振り返り
思い出すことがあります。

(6)大林組には同窓生が各職場活躍していましたが、40年数年前から高卒は採用されていない
ので現在在籍社員は残念ですがおりません。
*千曲高校同窓生
・当同窓会荒木建築部会長は現役時代積算のスペシャリストです。国賓を迎える「迎賓館赤坂離宮」
は明治42年に東宮御所と建設されました。昭和の大改修工事で難しい工事に従事されました。
・地元では北陸支店長野営業所で電気科卒の伊藤利孝さんが営業部長として、・建築科卒の宮川隆一
さんは、現場を歴任した後に長野営業所所長として活躍されました。二人は地元、上田駅前の
再開発工事や専売公社跡のアリオ再開発工事等など担当され同窓生として大変嬉しく思いました。

(7)昭和58年11月 卒業30周年 会報に寄稿された宮崎先生と久保先生の寄稿文の一部
紹介します。
宮崎先生寄稿・・・・・思い出づるままに  注)こちらから参照願います。
久保先生等寄稿・・・・30周年について  注)こちらから参照願います。
*先生が50歳なる卒業生を愛情持って見守って頂いていることには感謝しかありませんでした。

「恩師の寄稿文に寄せて」             HP編集委員 (S.Motegi)
「二九の会」三十周年に寄せられた恩師の寄稿文を事前に拝読させて頂きました。
卒業後三十年間にわたって、かつての教え子達を見守り、ここに記されたような熱い思いに溢れた
文章をしたためられた先生方。その想いに、改めて「良き師」に恵まれた先輩諸兄の幸福を思い
起こしました。
この文にも記されていますが、「二九の会」に集う皆さんが学んだ時代は、まさに戦後の復興期、
格納庫教室に象徴されるように敗戦の爪痕が生々しく残る「教育設備が皆無」の状態でした。
その中で、教師と生徒が文字通り一体となって教育環境を整えつつ学んだ日々であったと思って
います。それは教科書で学ぶ以上の体験と、経験に裏打ちされた「実学」の連続でもあったことと
思います。それゆえに「苦境の試練を受け、種々の困難を克服して…」と、先生に言わしめた
生徒たる先輩たちの「意気軒高」な姿が鮮明に立ち上がってきます。
恩師の寄稿文に触れ、改めて「師と教え子」のあるべき姿に心が震えました。

(8)私はニッカズボンのハンチング姿の格好いい若い現場監督にあこがれ、母校千曲高校で建築
を学び建築技術者として思う存分に仕事ができたことを誇りに思っております。
*千曲高校在校生の皆さんの活躍と、同窓会の益々の発展と本日出席の皆さんのご健勝を祈願致し
まして私の話を〆めさせていただきます。ありがとうございました。

関東同窓会第48回総会でお話される 小林久氏
― 了 ―

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